なぜ私は「祭り」が苦手なのか
なぜなんだろう。
遠くで聞こえる太鼓の音が耳に入るだけで、それを遮断しようとしている。
楽しそうに帰路につく人々の表情をみるのが怖い。
誰に誘われても、行きたくない。
それが、祭りだ。
「祭り、苦手なんです」
そう伝えると、たいていの人は苦笑いしてこう言う。
「ああ、人混みが苦手なのね」
そうなんだけど、いや、違うな、それだけじゃない。
私には、祭りが苦手な理由が他にもある。
1、人混みが苦手
「都会嫌い」の理由のひとつでもある。
体と体が触れ合っても、立ち止まることすらしない。
どうしても従わなければならない、人の流れ。
傘を差すスペースもない、自分にあたえられたほんの少しのスペース。
単に人混みに酔うからという理由で、祭りを避けているのであれば、小さなお祭りはどうか?
やっぱり私は足を運んだりしない。
2、「楽しい」「騒ぐ」が義務と化した雰囲気
私は「楽しむ」「騒ぐ」という行為が好きではない。
「優等生」として、「まじめに」「おとなしく」してきた身としては、まず、その方法がわからない。楽しむことに、一種の恥ずかしさを覚えたりもする。
お祭りでは、この「楽しいよね」「騒ごうぜ」みたいな雰囲気が、半ば強制感を以て私に襲いかかる。
それが苦手なんだと思う。
3、知らない人の「パフォーマンス」に興味がわかない
こんな風に表現すると、なんかものすごい寂しい人間。
知らない人、というよりは、その「パフォーマンス」をすることを自分は別に求めていませんよ、という人。
しばらく祭りには行ったことがないから想像だけれど、祭りではきっと、知り合いが踊っていたりするんだろう。
私は、それを見てなんとも言えない気持ちになるだろう。
「素人」のパフォーマンス、言い換えれば、「(練習すれば)私にもできそうなこと」を見ても、私は何も感じることがない。なんだか悲しい人間だが、そういう思考回路を持っている。
4、派手な演出が「無駄」に思えてしまう
祭りを盛り上げるための装飾や、大きな音も、好きではない。
それらは、祭りを楽しむ人々にとっては、決して「外せない」ものなのだろうが、私といえば、「もったいない」「電気の無駄遣い」「ひとときの楽しみのためにいろいろなものを犠牲にして・・・」などと、考えを巡らせる。
ここまでいくと、なんとつまらない人間なのだろう、と、自分自身に驚く。
5、いじめっ子のトラウマ
小学生5、6年生の時、私はいじめのターゲットになったことがあった。
その時のいじめっ子のリーダー格、そしてその周辺の人々は、いわゆる「ヤンキー」の娘・息子たちだった。
これは一般的なことなのかはわからないが、地元のお祭りの「露店」といえば、マイルドもそうでないのも含めた「ヤンキー」の持ち場だった。
今でも忘れないが、小学生の私は、たった一度だけ地元のお祭りに遊びに出かけたことがあった。親に連れて行かれたので、自ら望んだわけではなかろうが。
その時、私が危惧していたのはたったひとつだった。
いじめっ子に、親といるところを見られたら、何と言われるか・・・
そして、その懸念は見事現実となったのである。
お祭りの次の日、いじめっ子は言った。
「お前、親とお祭り行くの?だっさ」
今考えれば、何とでも言い返せただろうけど、当時の私は、ただただ、顔を赤らめるだけだったにちがいない。
そんなトラウマもあり、私はめっきり、祭りというものに寄り付かなくなった。
中学生、高校生になっても、私は優等生だった。
高校生の時など、友人に何度誘われようと「自習室に行くから」で断っていたのだから。
大学生のとき、最も苦手なイベントは飲み会だった。
サークルの文化祭係に無理やり任命され、祭りの準備をほぼ一人でやりきったが、
本番は行かなかった。
私は非日常が苦手なのである。
そういえば、サプライズも苦手だった。
わざとらしい非日常の演出に、興ざめしてしまう。
大人になった私は、今まで漠然と抱いてきた祭りへの苦手意識を整理してみることにした。
何てったって、明日は祭りだ。